年末年始ですが、
今年は実家には帰省しません。
というのも、
11月と12月に立て続けに帰省していたので、
まあ今年はいいかな、と。
その理由は、
祖父が亡くなったからです。
先日もこんなの書いてましたが。

悲しい気持ちもあるけど、
最後の最後まで私に教えてくれたことがありましたので、
ブログにつづっておきます。
人は死んで、何を残すのか
祖父の家は、
実家からチャリで5分くらいの距離。
なので小学生の頃は、平日でも毎日のように遊びに行ってました。
そんなによく行くのに、
夏休みと冬休みには
決まって泊まりにも行って。
祖父母ともども愛情持って接してくれたからこそですね。
祖父のおつまみを勝手に食い散らかしたり(←サラミ好きになったきっかけ)
毎年届く北海道のいくらの醤油漬けで、白米をかき込んだり(←大人になってから、いくらに酢飯じゃないの変って言われたことあるけどうちがおかしい?)
誕生日には、メガドライブ(←これ重要)のソフトを買ってもらったり。
思い出を挙げれば、
キリがありません。
葬儀には久々に会う親戚のほか、
正直、私の知らない人たちも参列していました。
そこで交わされる話題は
もちろん祖父のこと。
よく「数え方は、死んだら残るもので」とか言いますよね。
まぁ実際の根拠とかは知らんけど。
鳥は羽が残るから一羽、
魚は尾が残るから一尾。(骨じゃないん?)
じゃあ人は、一名。
人は死して名を残すと。
祖父は別に世間的に有名だったとか、
そういうわけではありません。
でも、死してなお、
「いつもみんなを明るくしてくれた」
「子供の時分から、面倒見が良くしてくれた」
そんな話が
そこいらで尽きることなく語られていたわけです。
時分が死んだ時、何を語られるか
お金を稼ぐのも、良いことです。
ビジネスで成功するのも、素晴らしいことです。
ただ、人が亡くなった時に、
「あの人は、高い車に乗ってたよね」
「すごい時計をしてたよね」
「いっつも良い酒入れてたよね」
なんてことは、
基本、誰からも語られないと思うんです。
いやよっぽどだったらあるかもですが、
そんな物質的なことだけ言われるのは、
なんか悲しすぎるというか。
それ誰でもいいやん、ということでもある。
その”人”にフォーカスされてない。
“あの人”は、
という文脈で語られるのは、
どう生きたか、
周りの人とどう接したか、
どんな感情を与えてくれたか。
その人の生き様みたいなもんだと思います。
まぁ自分が死んだ後のことなんて
周りの人たちに何を言われるんですかね。
わからないんだから気にしなくても良いんですが、
どうせ人生の最後に自分の話題にしてもらえるなら、
そうやって語ってくれる人たちへ、なにか少しでも良いキッカケになればな、とも思います。
で、それこそが、
今の自分がどう生きるか、
なのかなと。
別に「人の顔色をうかがって生きる」ってことではないです。
自分の信念に従って生きた結果、
その答え合わせは
やっぱり自分だけは知ることができないんですけどね。
それでも
どう悔いなく生きるかの指針としては十分すぎるのかなと。
ビジネスとしては、
「あの人の仕組みのおかげで、人生が変わった」
と、心から言ってもらえるような価値あるものを作っていきたいし、
一人の人間としても、
祖父のように、周りにポジティブな影響を広げる存在でありたい。
改めて、そう心に誓いました。
通夜と葬儀、四十九日が終わるまで
心に少し穴が空いて、
ゆっくりボーーーっとする時間ができたので
そんなことを感じていました。
こういう時間もくれたんかな。
四十九日の天気は、
日本随一の雨の日が多い石川県らしからぬ、冬の晴れ。
そんなところもじいちゃんっぽい、
なんてみんなで言い合ってました。
今まで本当にありがとう。
安らかに眠れ。

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